はじめに
海も、山も、まったく無い柏市には、大地震、津波は無関係だと思っている方は読まなくて結構です。しかし、水災害などの他の災害と関係しますので、ここに詳しく記載しておきます。
九州の阿蘇の山は30万年前には高さ1万メートルにおよぶ世界一の超でっかい大火山で、それが爆発して、山頂部が吹っ飛び、いまの阿蘇五岳[根子岳(ねこたけ)、高岳(たかだけ)、中岳(なかだけ)、烏帽子岳(えぼしだけ)、杵島岳(きしまだけ)]になったという。したがって、今は阿蘇山という名の山は存在しない。
もし30万年前の姿が、そっくり残っていれば、世界一の裾野の美しい山になっていただろう。
そして、神武天皇が、高天が原から、高千穂に天孫降臨(てんそんこうりん)されて、高千穂が聖地となり、九州はおろか日本全体の中心地になっていたかもしれない。
しかし、頭がふっとんでしまったおかげで、いまは、白川水源からは毎分60トンと豊富で、美しい水が湧き、温泉あり、肥沃な土壌に恵まれ、熊本の町の人々の暮らしは潤っている。このように、自然の変動によって、人間のくらしは大きく変化する。
ワシントン州にある「アメリカの富士山」といわれたセントヘレンズ山は、つい最近の1980年5月18日の大爆発で、山頂部分がふっとんでしまい、崩壊して、赤城山の様な台形になってしまった。
桜とともに日本の象徴である富士山は、小、中程度の爆発は繰り返しおこしてきたが、山頂部の激しい爆発はなく、古富士火山に新富士火山が表面を覆う二重構造になっており、あのような均整のとれた円錐形の美しい姿をしているのである。
その体積は500?と日本の火山のなかでも飛び抜けて大きな火山である。なぜ、これほどの巨大な火山がここにあるのかは、地球科学上の謎の一つになっている。
以下、伊藤和明氏の岩波新書からでている『地震と噴火の日本史』を参考にし、補筆し、関東大震災について述べる。
富士山について
富士の山の命名については、平安時代の延喜(900年)以前の作で、我が国最古の小説とみられる『竹取物語』の最後にでている。
月からの使者が姫を迎えにきたとき、姫は帝に不死の霊薬をわたす。帝は姫を忘れられず、天に近づきたく、
「いずれのところか天に近き。」と問はせたまふに、
「駿河の国にあるなる山なむ、この都も近く、天も近く侍る。」と奏す。
かの奉る不死の薬に、また壺具して御使に賜はす。勅使には、調(つき)のいはかさという人を召して、駿河の国にあなる山の頂にもて行くべきよし仰せ給ふ。嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。御文、不死の薬の壺ならべて、火をつけてもやすべきよし仰す。その由うけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山をばふじの山とは名づけける。その煙、いまだ雲の中へたち昇るとぞいひ伝へたる。
調のいはがさ、という人に、駿河の國の山に行くように、帝は、命令する。そこで、手紙と不死の薬の壺とを並べて、火を付けよ。たくさんの(豊富な)武士(つわもの)とともにその山にのぼった。以来この山を、不死と、多くの(富くの)武士とを、かけて、富士山になったという。
その富士山が大爆発を起こすと噂されたのは、セントヘレンズ山爆発の3年後、1983年、昭和58年9月×日であったが、爆発はおこらなかった。
過去、富士山の噴火は、延暦、貞観、宝永の三大噴火で、1707年、宝永4年(第5代綱吉)、12月16日午前10時の爆発では、100キロ先の江戸中が10センチの灰に埋もれたことが、新井白石の『折たく柴の記』にある。
この噴火、爆発は16日間つづき、酒匂川が焼け砂や土石流で天然ダム化するなど、暗く厳しい冬を迎え、飢饉も増悪し、その被害は深刻を極めた。
この宝永の噴火は側噴火であったので、富士山の山頂部分の姿は美しく残された。しかし、江戸は降灰の害で、呼吸器疾患が急増し、
「これやこの 行くも帰るも 風ひきて 知るも知らぬも おほかたは咳」という蝉丸を捩った馬鹿げた狂歌が残っている。
富士山の大噴火爆発は、この宝永以降は発生していない。来年の2007年で、丁度300年間の沈黙である。
この富士山の宝永大噴火の、49日前、1707年宝永4年(第5代綱吉)10月28日(旧10月4日)に東海南海大地震(M8.4)がおきている。すなわち、南海トラフに、ユーラシアプレートが、ずれ込むための地震で、このときは実に広範囲で、東は江戸の東海地方から、西の紀州半島沖、四国の南海にまで及んでいる。
日本史上、最大規模の地震で、死者は2万人に達し、津浪で6万戸が消失したとされている。そして、引き続いて富士山が爆発したのである。宝永4年は地獄のような年であった。
地震規模としては宝永が最大で、死者がもっとも多い震災をだしたのが大正12年の関東大震災である。
江戸幕府は、伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)が中心になり、救済処置を考え、全国から100石につき2両の義捐金を募るが、幕府の財政は苦しくなる一方であった。
浅間山(標高2568m)も、その噴火は繰り返されているが、昨々年(2004年)の夏、9月1日から噴火が起こり、軽井沢あたりに降灰し、一時、柏市まで飛んできた。
大きな噴火は、1783年、天明3年(第10代家治)で、宝永の富士山噴火の76年後で、噴火のはじまりは5月9日で、一ヶ月毎に噴火を繰り返し、8月2日に大爆発をおこし、火砕流、降灰で、吾妻川(あがつま)、利根川の氾濫を招き、大洪水災害をひきおこしている。その時の遺体が関宿から江戸川にまわり中州にまで流れ着いたといわれる。東小岩の小岩不動尊善養寺に供養碑がたてられている。
このときの火砕流の通路となった地域は、浅間山の北側で、いま北軽井沢の別荘地やゴルフ場になっている。ハザードマップ上で危険地域として規制されるべき場所だ。
この災害は天明の大飢饉に拍車をかけ、時の老中、田沼意次の賄賂政治の祟りとして、江戸町民は幕府を呪った。
「浅間しや 富士より高き 米相場 火の降る江戸に 砂の降るとは」
「砂や降る 神代も聞かぬ 田沼川 米くれないに 水もふるとは」
このように、日本は有史以来、大地震、火山爆発被害に悩まされ続けているが、今回は地震の日本史、関東大震災と地震火災についてまとめる。津波、稲むらの火、地震予知については別コラムを参照のこと。
なお、地震史の編纂は、小説家田山花袋の実兄、田山実が、1903年、明治36年に『大日本地震史料』を出版し、過去の1896の地震を扱っているが、この資料は手許にはない。
日本の地震小史
日本の有史で、地震の無い年はなかったであろうが、記述としてのこっているもっとも古いものは『日本書紀』で、それは、允恭天皇(いんぎょう)5年、西暦416年「五年秋七月丙子朔己丑、地震」、7月14日に地震(なゐふる)があったと記載されていて、河内地方の地震と思われる。
この地震の際、先代の反正天皇の殯宮が心配で、皆、集合していたが、玉田宿禰(たまたのすくね)のみが、酒盛りし、参上していなかったので、彼は允恭天皇の命で、処刑されている。災害マニュアルを守らなかったための厳しい、見せしめの処分である。
その後の地震で、震源や、被害の程度はわからないが、被害の出た地震で、最古の記述とされるのは、推古天皇7年、新羅征伐の前年、西暦599年4月27日の、「地動舎屋悉破 則令四方、俾祭地震神」で、舎屋がことごとく破壊されて、四方(よも)に令(のりごと)して、地震の神を祭(いの)らしむ。
このように、地震は神がおこしていたと考えていたことがわかる。
ついで、これは、天武天皇の7年679年12月に、九州、筑紫で、広範に地すべりをおこした大地震があった「天武天皇七年十二月葵丑朔巳卯、臘子鳥弊天、自西南飛東北。是月、築紫國大地動之」。前兆として、臘子鳥アトリが南西から北東に飛び、天をおおった。その月に地動があった。
そして、この地震でできた断層は、最近の地震地質学の調査で、久留米市付近の水綱(みのう)活断層の活動と、ほぼ確定されている。
関東大震災時の60年周期説の今村明恒教授が命名した「白鳳地震」。これは、同じ天武天皇の13年684年10月14日の巨大地震で、日本の最古の南海トラフ巨大地震で、四国をおそい、伊予、道後温泉の湧き湯が止ってしまい、「大潮高騰、海水飄蕩踏。」大潮高く騰りて、海水飄踏ふ。土佐に津波襲来し、船は多数流失している。
このように、古文書、日本書紀に載せられた当時の人々の詳細な記録が地震像の復元に役立つ。
平安時代
864年、貞観、平安時代で、菅原道真の時代で、『日本三代実録』に記載されている。地震ではないが、富士山の貞観の大噴火があり、この噴火の溶岩流で?の湖(せのうみ)が西湖、精進湖に別れ、河口湖、本栖湖ができた。その70年後の937年の再噴火で山中湖ができて、富士五湖が形成されたのである。前述した『竹取物語』からもわかるように、平安時代は富士山の激動の時代であった。
ついで時代は遡り、壇ノ浦で、平家が亡びた、その3ヶ月後、京都で大都市直下型大地震がおこった。これが鴨長明の『方丈記』の第二節に、「また、同じころかとよ。おびただしく大地震振ること侍き。そのさま、世の常ならず。山はくづれて、・・・」、1185年元暦2年8月13日、M7.4で、法勝寺(京都動物園内にあった)の九重塔、阿弥陀堂、南大門の倒壊、法成寺の回廊、専勝寺、最勝寺の鐘楼が崩壊している。
これも大都市直下型地震で、1317年、正和6年2月24日、鎌倉時代、花園天皇の御代に京都の東、白河を震源とする強地震があった。東寺の九輪が傾き、清水寺から出火している。これは吉田兼好の『徒然草』の第25段に「飛鳥河の・・・京極殿・・正和のころ、南門は焼けぬ、金堂は、その後の倒れ伏したるままにて、・・・」とでていて、これは『続本朝通鑑』により、地震で、旧暦の1月5日におこった。
1498年、明応7年、応仁の乱の約30年後、室町時代、の東海地震では志摩半島、浜名湖で津浪災害があった。この時までは内陸にあった浜名湖は南端で津浪に削られ、海水とつながる、汽水湖になったのである。鰻のはなしも、さほど昔ではなく500年まえからのことである。
天正の時代
1586年、1月18日、天正13年11月29日、飛騨美濃大地震があり、秀吉はこれを体験し、この後、伏見に城をたてるに際し、地震対策の行き届いた普請にしてもらいたいという、「ふしみのふしん、なまつ大事にて候まま」と京都所司代に書簡をあてている。伏見城に入城したのは1594年で、しかし、その2年後に一番心配していた大地震がおこった。なまつとは鯰のことで地震をさす。
秀吉は日本全国を平定したが、弟秀長は病死、秀次は秀吉の手で誅殺処分され、そろそろ秀吉の天の福分が急速に散り出しはじめていた。朝鮮征伐に関する明との和議に際し、自らの力を顕示するため、千畳座敷、金箔の襖、八層の天守閣の伏見城を普請し、外では15万人の軍勢パレードを計画していた。ここに大地震が起こり、伏見城は一瞬にして完全崩壊してしまうのである。秀吉は相当のショックで、明特使を場所を急遽変更し、大阪城で迎えることとなった。
1596年9月5日、文禄5年(慶長元年)、丑三つ時、慶長伏見地震とも伏見桃山地震ともいわれる強地震で、秀吉は、慌てて、淀と5歳の秀頼をかかえて、内庭に飛び出す。謹慎中の加藤清正が助けに入り、秀吉を感動させた。これによって歌舞伎『増補桃山譚』になっている。その後、8、9日にも大地震があった。この時、明の特使らは堺でこの地震に遭遇している。
大阪城に、いよいよ、明の特使が明王の封冊(ふうさつ)をもって登城する。沈惟敬がそれを読みあげる。「爾を封じて日本國と為す」と。明王が、秀吉、爾、おまえを日本の王として許可してやるという封冊の内容に激怒し、これを裂いて、明使の誅殺を命令し、和議は中止となり、朝鮮征伐が再開されたとされている。
自分の生きている時代の実感を普遍の真理と思いたいのが人間の常であるが、これが作り話なのか、真実は? どのような理由で、秀吉畢生の大事業として朝鮮征伐をはじめたのか。日本史で、きわめて重要な外交政策の決定場面であり、真相をしりたいところではあるが、後世が文飾してしまって、真実はのこされていない。
また、利休の切腹、秀次の誅殺など秀吉には不可解な行動がみられる。天下統一で不可能なことはなにもないと思い上がっていたのか、この地震の直後から、天から見離なされたように奈落に急降下していく。
このように、自然、特に大地震の人間に対する精神的ダメージは大きい。
関東大震災では復興まで7年、阪神・淡路大震災では11年たっても完全復興にはほど遠い。
秀吉も地震の伏見城崩壊で精神的苛立ちの激しいときに、明の特使が王と認めてやるといったものだから、激怒してしまったのかもしれないが、内容はあまりにも、お粗末。
頼山陽の『日本楽府』、最後の第66?の「裂封冊」で、明の特使が秀吉を怒らせた事件としてとりあげている。
この朝鮮征伐という茶番劇の原因は、山室恭子氏の『黄金太閤』でのシナリオでも、やはり、この伏見大地震であろうとしている。そして、朝鮮での鼻そぎや、善光寺如来強奪を強行したのも、この大地震ですべてを失ってしまった無力感からの立ち直りの、身勝手な祈りのような気持ちが原因であったのではないかとしている。全く迷惑な、人災的、話である。
江戸時代
このあと、江戸時代に入り、1605年、慶長9年の慶長地震はM7.9と強く、南海トラフの地震で、津波が紀伊、四国に来襲している。
1662年、寛文2年、都市直下型大地震が京都、琵琶湖に発生した。花折断層の活動とかんがえられている。
芭蕉が奥の細道の旅にでかけたのは、1689年、元禄2年(5代綱吉)で、7月31日には酒田を発ち、秋田と山形の県境にある、西の松島とうたわれた、名勝、象潟(きさかた)にむかった。
三十七、江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。船を浮かべて一句、
「象潟や 雨に西施が 合歓の花」
美麗の島々であったが、これらの島々は115年後1801年の鳥海山爆発で、海の上に頭をだした、これらの小島は2.5メータも押し上げられて、陸地になってしまった。いまでは、芭蕉の見た海の景観はない。
1703年、元禄16年(5代綱吉)、12月31日、未明元禄地震が江戸であり、新井白石は当時47歳で甲府公綱豊に仕えていたが、直ちに江戸上屋敷に駆けつけたことが『折りたく柴の記』にある。
癸未の年、十一月廿二日、の夜半、ここかしこの戸障子皆たふれぬ。地裂ける事もこそあれ。上下の上に道服(衣服の上に被う、広袖の、長い羽織)きて、我は殿に参る也。
江戸の崩壊ははげしく、これによって、馬鹿騒ぎしていた元禄江戸文化も一時鳴りを潜める。元禄15年に赤穂浪士の討ち入りがあり、四十七士が切腹処分になったのが1年後の元禄16年2月4日であり、その年の瀬、浮き世は、この地震で終止符をうったのである。この後、宝永大地震で、江戸はさらに大打撃をうける。
1707年宝永4年(5代綱吉)10月28日(旧10月4日)に東海南海大地震(M8.4)に宝永大地震は、あの富士山の爆発をあとにひかえた最大の地震で、南海トラフの活動のために、範囲は拡大している。
1783年、天明3年(10代家治)の浅間山大噴火は上述した。この時も天明飢饉におちいる。
1801年、亨和元年(11代家斉)、鳥海山爆発とその後の地震で、象潟の西の松島はうしなわれてしまう。酒田の家屋は5,393戸崩壊、死者313人におよんだ。1804年に再度、大地震が起こっている。
1830年、文政13年(11代家斉)8月19日午后4時に、京都に大都市直下型大地震あり、花折断層の1662年以来、168年ぶりの大地震で、被災は御所をふくめて家屋崩壊で、死者280名。
京都の地震は、ほぼ160年毎におこっているが、この地震以降、現在まで、176年間、大地震はおこっていない。
しかし165年後の1995年に六甲・有馬・高槻断層系活動で、阪神大震災がおこったのである。けっして京都の地盤が強いわけではない。今後は、2150年あたりで京都を壊滅させるような大地震が来そうである。
1847年、弘化4年(12代家慶)、5月8日、旧暦3月24日の都市直下型の善光寺地震があった。この日は、たまたま、如来御開帳の日で、旅籠もにぎわっていた。被害も大きく、1万人使者がでたとみられている。断層は、いまの県庁、信州大学、裁判所の立地場所である。また善光寺の本堂の耳石をささえる左の柱が、礎石の上で20度ほど時計回りにずれたままになっている。地震柱といわれている。
この地震で、善光寺の西方を流れる犀川(さいがわ)が天然ダム化したことで、川下の松代藩まで、その水害はおよんでいる。しかし、藩では、犀川の決壊の有無を烽火(のろし)でしらせるように指示し、そして他藩からの避難民の受け入れ体制を整えて、みごとに危機を脱したという。さすが、賢藩である。
幕末の地震
1854年、安政元年(13代家定)、12月23日、の安政東海・南海地震はM8.4と南海トラフで、過去最大級である。この前年の1853年7月18日に米国ペリーの黒船が浦賀にあらわれ、8月21日にはロシアのプチャーチンがあらわれた。川路聖謨(としあきら)との会談については吉村昭氏の『落日の宴』に詳しく、その5、6章で、この大地震との対応が書かれている。
12月22日に、プチャーチンと第1回の会談を終えて、泰平寺に戻って、23日の午前2時頃まで、睡眠を取らずに会談内容を記録した。一眠りし、午前8時に起床、朝食をとっているときに、膳が横に飛び、体が跳ねあがった。外に出て助かったが、すぐに浜のほうから津浪が押し寄せる。急歩で高台に駆け上がり難を逃れる。
プチャーチンの乗っていた船『ディアナ号』は、大砲を60挺そろえた2000トンの堂々たる木造船であったが、津浪に翻弄される。30分間に42回転し、7時間後にやっと動きを止めた。ボロボロになりながらも、流失した日本人の救助をおこない、プチャーチンは通訳者ポシェットと医師コロレウスキーをともなって、夕方には上陸し、川路を訪問している。
その後、龍骨(船首から船尾まで貫く船底の背骨;キール)が九尺ほど折れ、浸水するなど、破損の激しいディアナ号を伊豆韮山の代官で大砲造のための反射炉を建築した江川太郎左衛門らが修理するため、下田港が使用できないので、老中の御用状によって、戸田(へだ;西伊豆、修善寺の西)の港まで船を移動させることとなった。
しかし、大時化(しけ)にあい、いままでやっと持ち堪えて、もう少しで戸田入港のところで、五里も北西に流され、田子の浦と富士川の中間地点の宮島村の180メートルの沖合いで、無惨にも、ついに沈没してしまう。プチャーチンら船員らは無事上陸する。
プチャーチンは新たに船を造ってもらうか、他の日本の船を借りて帰国したい旨を、川路と交渉していた。このときに、フランスの捕鯨船『ナポレオン号』が、サンフランシスコから香港に届けられていた漂流民の作蔵と勇次郎を引き渡しに下田に寄港してきたのを聞いて、プチャーチンは、このフランス船を襲撃掠奪しようと試みる。
しかし、ナポレオン号は事前に感知し、夜間、そうそうに去っていった。プチャーチンの悔しがることしきり。
日本の船大工たちは3ヶ月で、わずか80トンであるが、船をつくり上げた。プチャーチンらは、この小船で、故国へ旅たったのである。尽力した江川は途中で病死してしまう。プチャーチンは、この船を戸田号と命名したという。
この1854年安政元年の東海・南海大地震は、紀州、土佐にも大災害をもたらした。紀州における、この時の津波災害の防災手段をえがいたのが、『稲むらの火』である。
明治以降の大地震を列挙する。
1896年、明治29年6月15日、明治三陸沖大津浪
1923年、大正12年9月1日、関東大震災、
1927年、昭和 2年 3月7日、北丹後地震、
1933年、昭和 8年 3月 3日、昭和三陸沖
1941年、昭和16年12月7日、濃尾大地震この時から地震調査会が設立された。
1944年、昭和19年12月7日、東南海地震
1946年、昭和21年12月21日、南海地震
1960年、昭和35年5月23日、チリ大津波
1964年、昭和39年6月16日、新潟地震
1983年、昭和58年5月26日、日本海中部地震
1993年、平成 5年 7月12日、月曜日、奥尻島津波
1995年、平成 7年 1月17日、火曜日、午前5時46分、阪神・淡路大震災
2004年、平成16年10月23日、土曜日、午后5時56分、中越大地震
2005年、平成17年 4 月20日、水曜日、午前6時11分、福岡県西方沖地震
2007年、平成19年 3月25日、日曜日、 午前9時40分、北陸地震
2007年、平成19年 7月16日、月曜日、振替休日、午前10時13分新潟県中越沖地震
中越沖地震は、安倍氏が参議院選挙の遊説の最中で、柏崎原発が崩壊した。
関東大震災
先ず、石橋克彦氏の地震と震災の定義を述べておく。地震とは「地下の岩石が破壊して地震波を放出する現象」で、鯰が原因ではない。しかし、鯰は予兆現象をおこす。
そして、この地震波が地表に達して大地が揺れるのを、地震動という。
この地下の震度をマグニチュードであらわし、地表の揺れ、すなわち地震動の程度を震度であらわす。そして、その災害を震災という。
したがって、阪神大震災という場合と、兵庫南部地震と表現する場合がでてくる。
活断層、active fault は、地学専門用語であるが、明治、大正の地震学では見られない用語で、1927年、昭和2年12月7日、北丹後地震の地震調査結果報告書で使われた用語で、この頃からさかんに使われはじめている。
その定義は、東京大学地震研究所の多田文男氏が1927年に「極めて近き時代まで地殻運動を繰り返した断層であり、今後も活動すべき可能性の大いなる断層」としたが、その後、吉川虎雄氏が1973年、「第四紀、特に第四紀後期過去約100万年に活動したことのある断層は、活動しつつあるものと推定されるので、活断層とよばれる」と定義している。
さて、広範囲の大震災の状況を知るのは難しい。なぜなら、災害の状態を、報道で知ろうと思っても、大地震では新聞社の建物は崩壊し、新聞の発刊は不能状態に陥っているからである。
したがって、大地震災害の状況を知る方法は、後に体験者談を忠実(まめ)に徴集するしか方法がないのである。
日本史上最悪の関東大震災については、83年経過しており、古すぎるという理由で語られることは少なくなっているが、地震火災予防について学ぶ所は大きい。
これは、吉村昭氏の『関東大震災』にくわしい。この地震でのキーワードは、吉村昭氏によると、大正天皇即位の大礼、大森房吉、今村明恒、寺田寅彦、藤原咲平、後藤新平、山本権兵衛、流言飛語、本所被服廠跡(ひふくしょう)である。
吉村昭氏のノンフィクションの調査には今のインターネット検索でも不可能で、惘れるほど、詳細に、完璧に行われている。作品には、氏の胸を抉るような執念を感じるが、史学書としても、後世に語り継ぐ財産であるとおもう。
補足しながら紹介する。そして、関東大震災では、とくに火災と防火がポイントで、このコラムでは、本所被服廠跡について、読んでもらいたい。
小説は、大正4年11月6日、午前6時すぎ、宮城二重橋からはじまる。大震災は1923年、大正12年であるのに何故だろう。ここで、この小説をよむのを諦めてはいけない。大正天皇即位の大礼の行われた日付が重要なのである。
天皇即位の大礼の儀は、京都御所紫宸殿でおこなわれる。明治天皇の大葬から約4年すぎて、大正天皇の即位の大礼が、やっと1915年大正4年11月10日水曜日におこなわれた。ちなみに、昭和天皇の即位大礼は昭和3年11月10日土曜日、平成今上天皇の場合は平成2年11月12日月曜日、雨であった。
大正天皇即位大礼
即位大礼のため、大正天皇は6日、黄束帯の八瀬童子たちに担がれた御羽車で、嚠喨(りゅうりょう)とした近衛兵のラッパの音とともに、朝の陽光をあびて御発輦(はつれん)され、東京駅に向かわれた。その日の午後4時に名古屋に着かれ、名古屋離宮で一泊。名古屋市内は花電車がでて、祝賀ムードは盛り上がる。翌7日午前9時に名古屋を出立、京都御所に入られ、8、9日と政府高官、外国来賓の迎賓に忙しく行事の準備におわれ、10日に即位式が古式に則っとり、滞りなくおこなわれた。
これを受けて、東京でも11日木曜日には、祝賀で京橋、本郷、芝に山車がでて、各地区でお御輿が出、学生の提灯行列が出るなど、夜更けまで、祝賀行列は続いた。
やがて、夜も更け、人々は寝入ったころ、突然、東京に大きな地震がおきた。12日金曜日午前3時21分32秒、その25分のちと、さらに、朝8時15分にも地震がおきた。その後も群発する。それも、みな強震であった。その後、7日間続いた。
震源地は、千葉九十九里浜沖と東京帝国大学地震学教室の今村明恒助教授(1870-1948;鹿児島)が発表した。これに対し各新聞社が大地震の前兆ではないかと、今村に取材を申し込んだ。
教授の大森房吉(1868-1923;福井)は、大礼に出席のために京都にいた。今村はこの時は特に心配はいらない、万に一の確率で、大丈夫と、新聞社につたえた。
今村の周期説
13日土曜日は全く震動はなく、今村の謂うよう余計な心配であったと東京市民は思った。しかし、14日日曜日になって午前10時37分36秒、再度、強震があった。ついで46分と11時34分16秒に強い揺れを感じた。
人々は、江戸安政2年の大地震から60年目で、丙午(ひのえうし)の年にあたるので恐怖に駆られ、東京市内は騒然となり、新聞社は今村に再度コメントを要求する。
今度は、60年周期で大地震の前兆として差し支えない、百に一つの確率でおこるだろう、注意をおこたるなと発表した。
「昨夜も亦地震 前後三回で震源地は上総一宮 安政から六十年目といふ問題 万に一つが百に一つに変わった」と東京日日新聞は公表した。
その翌日15日には微震であったが、人心は乱れはじめ、狼狽し、どうすればよいかの問い合わせが新聞社に殺到する。大地震が明日おこるという悪戯電話が、区役所、市役所にかけられ、役所が是を信じ、避難勧告を出してしまう。これを知った市民は、避難場所を求めて徘徊する。誤報と知った警察官の慰撫を払い、浮浪する人々が町中に溢れるありさま。
16日には再度、強震がきた。このときは千葉香取郡万蔵小学校の校庭の崖が崩れ、5名の生徒が生き埋めになった。17日の朝の微震で、これが最後となり、鎮まった。
大森は、まだ京都にいた。京都で今村の新聞紙上のコメントをよんだ。20日に急遽東京にたちもどり、21日に「続発した地震は、その性格から判断して、大地震の前震ではないことがあきらかになった」と公表し、これで一端、人心の乱れは休息した。
そして、大森は今村に軽はずみな言動は謹むように厳重注意する。これで、今村の独走は明治38年以来、二度目だ。日露戦争さなかの明治38年、雑誌太陽に、今村は、大地震60年周期説の論文を公表した。このとき、火の始末の重要性と、大地震が来ると江戸の災害の3、4倍の人命を失うだろうという予想を発表している。
この論文をインド洋船上で大森は読んでいた。帰国後、東京二六新聞に、「東京が非常の震災を被るのは、平均数百年に一回と見なしてさしつかえない。今にも東京全市が全滅する程の大震が襲来すべしなどと想像するは全く根拠なき浮説」と今村説を罵倒、批判した。これ以降、大森教授と今村助教授は犬猿の仲となっていたのである。
そして、大正12年をむかえる。今村助教授は、その夏8月22日に樽前山(北海道、苫小牧)の小噴火の調査に出ていて、30日に帰京し、その調査写真を整理していた。巷では今村行方不明説がながれていた。この今村も9月1日の夜には夜警の青年団にかこまれて、朝鮮人と間違えられ集団暴行を受けるところだった。地震、火災よりも恐ろしかったと『地震講話』の付録大地震調査日記(9/20)に記している。
大森と大震災
1923年9月1日土曜日、午前11時58分44秒。この関東大震災の折りは、またも大森教授は不在。今度はオーストラリアでの第二回汎太平洋科学国際学会に出席していた。
今村は、関東大震災が発生し、ついに、自分の60年周期説はまちがってはいなかった。火災の心配も的中してしまったとおもった。
大森は、シドニーの天文台でピコット台長の地震観測所を偵察していた時、たまたま地震計がゆれているので、どこかで地震が発生しましたかと問い、これが東京であることを知らされ、すぐに東京に電報をいれる。
しかし、返信はない。その数日後に、全市壊滅状態を聞き、急遽日本にもどろうとするが、吐き気、目眩、頭痛のため寝込んでしまう。ひとりで、 9月24日、ハワイ経由の船、天洋丸で、帰国の途につく。船上から復興に貯水対策が必要と、大学に電報をおくった。
10月4日、今村は塩谷、福士医師とともに横浜まで迎えに出た。大森は今村に、「この度の大震災について、私は重大な責任を感じている。きみの論説が正しかった。わたくしが、間違っていた。譴責(けんせき)されてもやむを得ない。しかし、政府に水道施設の改良を執拗に要求し、それが実現されたことでわずかに自らを慰めている」と、消え入るような声で伝えた。そして、嘔吐を繰り返す。急遽、震災で崩壊している東大病院三浦内科に入院させた。診断は脳腫瘍であった。
大森は最後の力を振り絞り、今村を次期教授に、震災予防調査会委員に推挙した。震災予防調査会の委員内田祥三東大建築学教授を呼び出し、「東京を復興させてもらいたい。貯水池を各所に設置、火災の注意で区画整理が必要」とのべ、「後藤新平に思い切った復興計画を立てるように伝えてくれ」と、嘔吐を繰り返しながら叫んだ。
後藤、山本権兵衛は次々日、10月25日、大森を見舞い、東京復興に尽力し、思い切った改革をしていくことを約束した。ついに大森は力尽き、11月8日、急死してしまうのである。
政府は加藤友三郎が大腸癌で、8月24日に死亡し、震災時は総理不在の状態であった。
急遽、第二次山本権兵衛を総理とする政府をつくりあげたのである。
大森教授は、無念の死であったろうが、教授として責任を取らなければならない時点でいつも不在。何のための教授であったのか、疑ってしまうが、学会の出席と地震の発生とがいつも合致してしまう。
このことは、常に、患者がいる医学臨床教授でも同様のことである。教授、責任者として、心しなければならない事項であろう。
それにしても誰か、まわりのものが助言できなかったものか。もし、大森が正しい予知判断をしていれば、大震災による火災も、少しは軽減されていたかもしれない。
今村助教授は震災のあとも、日本各地から講演をたのまれる。そこで、大阪に出向いての講演で、大阪でも注意が必要、予防策を考えておくべきだとしたのを、新聞社は、すぐにでも大阪に大地震が来ると、報道してしまい、また大騒動になってしまう。
しかし、関東大震災は、地震学に多くの貴重な実質的資料を与えた。
長岡半太郎理学博士は、地球形態と深部内部構造の基礎的研究を重視しすべきと説き、石原純は歴史的統計にたよりすぎていた、地質、物理の並行研究の必要性をとき、中村清二は、火災の研究が無視されていた、水道は破損されるので使用不可能となる、この点では、江戸時代の破壊消防のほうがましだと意見し、民衆の地震での火元の消火教育を徹底させねばならないことを説き、藤原咲平気象学者は、解放された公園と道路拡張が必要とし、寺田寅彦は、人間と地震について、人間のおろかさを説き、江戸時代の人間のほうが、明治の人間よりましだと嘆いた。
そして、もう東京は使えないと、遷都の意見までとびだすが、後藤新平たちは、帝都復興に、なんと、国家予算の3倍の40億円を投入しようとしたが、あまりにも非現実的、理想的として、12億に削られている。それでも、人心の不一致を克服し、土地買収、区画整理、道路整備がおこなわれた。
しかし、社会主義者大杉らが殺害されるなど、世情は暗い。大正12年の冬、12月27日、昭和摂政天皇が難波大助共産主義者に狙撃される虎ノ門事件が発生。摂政は無傷であったが、入江為守侍従長は軽傷。この事件で、山本権兵衛内閣は総辞職。また、福田雅太郎大将震災戒厳司令官の暗殺事件がおこる。大正天皇崩御は大正15年12月25日1926年。
したがって、昭和元年はわずか、6日間。