
目鬘(目かつら)というのは、江戸の花見で使われた紙仮面で、仮面舞踏会のように仮面を顔全体につけるのではなく、目の部分に穴をあけ、顔の上半分を覆う紙製の面である。
江戸庶民は桜の花見のときに、各名所で、これを買い、紙烏帽子をつけたりして、匿名性を得るように変装して花見物していたという。これでドンチャン騒ぎをやったのである。
だが、江戸の、さくらの花見にいくのに、皆が、目鬘を付けていたわけではない。女性は花姿といって、長振り袖で着飾って筒一杯のおしゃれをしてでかけていたし、習い事のお師匠さんが先頭で、弟子たちは、そろいの法被を着て、そろいの手拭いで、全員目かつらをつけて、列をなして、花見に繰り込む群衆もいた。
日本で花見といえば桜見物で、他の、例えば梅、菊の花を観賞するのを、花見とはいわない。これは日本独特のことで、他国ではみられない花の観賞で、対象は桜に限られる。
その条件は、白幡洋三郎氏の『花見と桜』によると、群桜、飲食、群衆(白幡氏は群集としているが、大衆の意味も含めて群衆のほうがよいと思う)の三要素が日本的花見なのである。
吉宗の鷹狩り復活とともに江戸庶民のための娯楽として、花火、花見が計画され、さくらの移植がおこなわれた。開花の見物、飲食、娯楽につかわれ、日本桜文化にまで発展するが、外国人ら、シーボルト、ベルツ、チェンバレンは、花見は日本文化として評価していない。
私見としては、花見の歴史は茶の歴史からおこったものとかんがえている。奈良時代は梅をたのしんでいたが、平安時代から桜になり、室町時代の佐々木道誉などのばさら大名(婆沙羅)の出現で、茶会と花見が合体し、室内での侘び寂びが屋外にでての大宴会に変化していく。とくに、1598年、慶長3年戊戌、弥生3月15日(新暦4月20日)の秀吉の醍醐寺での大茶会を頂点とし、これ以降、茶の文化形成と並列して、花見は、茶会、パーティーの開き方で日本独特の文化をつくりだしてきたと考えている。
これらは今でいう、社交パーティーであり、カネをかけず、桜の花を愛でながら、大勢で、酒のんで騒いで、ドンチャカやり放題の、馬鹿げた日本人独特の乱痴気パーティーである。
当人の桜の木は、最後に残された塵と自然破壊をみて、西行の嘆きもわかると苦笑しているであろうし、その後には自らの葉に毛虫がつき、この害虫駆除に毎年、目一杯の薬をふりかけられるのである。この害虫駆除にも手間暇、人手、カネがかかる。大衆はそんなことは気にもとめていない。
落語の『花見酒』を日本経済の特徴とみたのは、1962年の笠信太郎氏で、当時ベストセラーになったが、いわゆる金は天下のまわりものである。この後、日本経済は行き過ぎて、バブル崩壊してしまうことは予測できなかった。カネの使い方と貯め方が上手にできないのが、花見の好きな日本人である。
しかし、日本の花のチャンピオンの桜の開花は、毎年、列島の南からやってくる。東京では3月の下旬から、4月の上旬にかけてで、旧暦でいうと、如月の望月のころである。
したがって、入学式に、校庭にさくらがこれぞとばかりに満開になっていると、如何にも新入生を祝福しているようで、新入生の希望に胸ふくらむのを最大に演出してくれるのである。
開花の期間は、長ければ20日間以上ということもありうるが、逆に花冷え、花曇り、春嵐、春雷、暴風雨となって、花見どころではない年もあった。この時期、わずかに3日間にして、完全に散ってしまうこともしばしばで、空蝉(うつせみ)に似たる様となる。
端唄に
春は嬉しや 二人揃うて花見の酒
庭の桜におぼろ月 それを邪魔する雨と風
ちょいと散らして又咲かす
そして、ろくでなしの子育てで、まだまだ登校しない子の授乳をさせている母親は、桜の開花とともに気分も爽快に成りそうなのに、降る雨が花をおとし、せっかくの桜の日もだいなしで、ふたたび気は鬱いでしまう。
これをよんだ、辰巳泰子さんの歌を櫂さんが紹介している。
乳ふさを ろくでなしにも ふふませて 桜 終はらす 雨を見てゐる
さて、これから、枕草子の四季のとらえ方と、旧暦の底力を確認していく。

春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
夏は、夜。
月のころは、さらなり。
闇もなほ。
螢のおほく飛びちがひたる、
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。
秋は、夕ぐれ。
夕日のさして、山のはいと近うなりたるに、
烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ、三つなど、
飛びいそぐさへ、あはれなり。
まいて、雁などの列ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、
風のおと、虫の音など、はたいふべきにあらず。
冬は、つとめて。
雪の降りたるは、いふべきにもあらず。
霜のいと白きも。
また、さらでもいと寒きに、
火などいそぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、
火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

ころは、
正月、・三月、四月・五月、
七・八・九月、
十一・十二月。
すべて、をりにつけつつ、一年ながらをかし。
正月。
朔日はまいて、空のけしきもうらうらと、めづらしうかすみこめたるに、世にありとある人はみな、姿かたち心ことにつくろひ、君をもわれをも祝ひなどしたる、さまことにをかし。
七日。雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬところに、持てさわぎたるこそ、をかしけれ。
白い馬見にとて、里人は、車清げに仕立てて、見に行く。中の御門の戸じきみ、曳き過ぐるほど、頭一ところにゆるぎあひ、刺櫛も落ち、用意せねば、折れなどして笑ふも、またをかし。
三月、
三日は、うらうらとのどかに照りたる。
桃の花のいま咲きはじむる。
柳など、をかしきこそさらなれ。それも、まだ繭にこもりたるはをかし。ひろごりたるはうたてぞ見ゆる。
おもしろく咲きたる桜を、長く折りて、大きなる瓶に挿したるこそをかしけれ。桜の直衣に出だし袿して、客人にもあれ、御兄の君達にても、そこ近くゐて、ものなどうちいひたる、いとをかし。
四月。
祭のころ、いとをかし。上達部・殿上人も、表の衣の濃き淡きばかりのけぢめにて、白襲どもおなじさまに、涼しげにをかし。
蔵人思ひしめたる人の、ふとしもえならぬが、その日、青色着たるこそ、「やがて脱がせでもあらばや」と、おぼゆれ。綾ならぬは、わろき。

花の木ならぬは、楓、桂。五葉。たそばの木。品なき、心ちすれど、花の木ども散りはてて、おしなべて緑になりにたるなかに、時も分かず濃き紅葉の、艶めきて、思ひもかけぬ青葉の中よりさし出でたる、めづらし。

繪に描き劣りするもの。瞿麦(なでしこ)、菖蒲、桜。
物語に「めでたし」といひたる、男・女の容貌。

冠婚葬祭の冠は、加冠、戴冠の儀で、男子の元服のことである。
婚は結婚、婚姻のことで、暦では六曜の仏滅の日はさける。
葬は、葬儀のことで、松の内は葬式は休み。六曜での友引の日も葬儀はさける。
祭、まつりは、まつるからきており政事、まつりごとから転訛し、神仏、祖先への感謝の意味が含まれているが、西洋のfestivalのfeteはfood、食物からきていて、意味がまったく異なる。
平成19年度の冠婚葬祭についてのべる。和名月は旧暦での月に対応して使われるが、太陽暦での1月、2月の対応させて、順に述べる。
2007年、平成19年は丁亥で干支は猪。
京都御所の蛤御門の護王神社の入り口に、狛犬のかわりに、猪の石像一対がおかれている。これは和気清麻呂が、鹿児島大隅に流罪になったとき、大分の宇佐八幡宮に立ち寄り、このとき、300匹の猪があらわれ、守護されて、参詣したといわれ、神使とされている。岡山の和気神社でも猪が神使として扱われているし、大正4年には、拾円紙幣の意匠、デザインに使われた。
イノシシは雑食で、稲、麦の穀物や雑穀ばかりでなく、地上の木の実までも食べ、肉食として、他の動物を襲って食べ、牙で、地を掘りおこし、ミミズやヤマイモ、ユリ根をたべる。このため、田圃、畠が荒らされるため、防止策を採らなければならない。
万葉集には、猪を詠んだ和歌が19首あるというが、その中の、巻12-3000に母が寝ずの番で、イノシシの田圃荒らしの見張り番をしているので、彼氏に会えないと嘆く歌がある。
霊(たま)あはば 相ねむものを小山田の 猪田禁るごと 母し守らすも
食い荒らされる田圃を、しし田といい、木册や縄で、ししがき、ししどてをつくったり、鳴子や、京都の寺院の庭にみられる、ししおどし(僧都、添水;そうず)などで、防御策を考案してきたが、イノシシは自分の空腹には勝てず、手当たり次第に食餌を漁る、困りものである。時には、人も襲う。
イノシシは巨体化し、180キロにも育つことがあり、仕留めて、四つ足を、ひとまとめにして縛り、搬送するので、一頭、二頭と勘定せず、ひとまる、ふたまる、と数える。子供は可愛く、肌の色の筋の状態から瓜に似ているので「瓜り坊」といわれ、危険をかんじると、母親の腹の下にもぐりこみ、頭をこちらに向けて様子伺いする。
南方の『十二支考』を参考に、亥、猪、イノシシは朝鮮では豕ブタのことで、山猪とかいてイノシシとよませる。中国の爾書には猪は豕の子とされているが、猪がイノシシ科で、豚もイノシシ科で、イノシシを家畜化したものである。従って、豚を猪の子、イノコという。繁殖力旺盛で、是にあやかり、旧十月の亥の日に亥子餅を食べて、無病息災と子孫繁昌を願う風習が残っている。
であるのに、豚と呼ばれた男がいた。奥羽永慶軍記二に、慶長19年に亡くなっているが、最上義光という、大男がいた。延沢能登守信景が勇力を試めすため、力持ち七人を集めた。その中の一番は鮭登典膳与力で、その丈はなんと七尺という大男で、彼に合う鎧などの具足がなく、京に頻回に武具を調達しに行かねばならず、戦のときは、素肌に腰指しして、歩行(かち)にて出陣し、いつも先陣をきって、敵を崩す。あまりにも肥って脹れていたので、豕に似ていて、豕之助と綽名され、ついに、みなが裸武太之助(ハダカブタノスケ)とよんだという。猪に関する民俗と伝説に書かれている。
イノシシに新年早々、申し訳ないが、イノシシといえば、曾我物語の「富士の大巻狩り」で、頼朝らが富士で狩りをおこなっているときに、猪が森からおいだされ、頼朝に向かって猛進してきた。そこに仁田四郎忠常が馬で、この猪を追い、イノシシにとびうつって、尻尾をつかみ逆さまの態で、小刀を取り出し、胴中、肋骨をかききり、イノシシの猛進をとめ、とびおりて、留めをさしたという。
この猛者仁田が、のち曾我十郎兄を殺害し、大磯の虎御前の涙をさそったのである。曾我物語の巻第8の「富士野の狩場への事」には仁田四郎忠常は伊豆国の住人新田四郎忠綱に、猪は鹿と記載されている。
さらに、甲子夜話51に、吉宗が、小金原に狩りに出たとき、自ら十文目の鉄砲で、大猪を仕留めた。この猪は年が歴て、鼻先に白毛が映えていて、背を澗泥、木肌や、こねた泥に背をこすりつけ、のたうちまわる。これをノタ、ニタ、ヌタ、ナタ、といい、からだを冷やし、消毒するためであるが、この老猪の肌は長年のノタで、小木が生じて、白い花が咲いたようにみえ、五月白と名付けられたという。
幽霊繪師の円山応挙の話で、馬琴の『蓑笠両談』に出ているが、ある人から応挙に、臥した猪を絵にしてほしいとの依頼があり、臥猪など見たことがないが、想像で、描いたものの、老婆に、臥猪を見たら教えてほしいと話しておいたが、竹篁(たかむら)に臥猪が居るといわれ、すぐに駆けつけ写生した。のちにある老猟師がこれの繪をみて、これは病猪だ、眠っている猪はもっと、毛髪憤起、四足屈蟠、自力有勢があるという。案の定、竹篁の猪はこれより5日後に死んでいたと老婆からきいた。円山は元気な臥猪にかきなおして、この老人に鑑定してもらったところ、老人は驚嘆し、これまさに臥猪といったという。この図は京都某家におさまっているという。
猪の話ではないが、応挙の写生について、若いときに、馬が草を食(は)む所を描いたが、ある老人が、これは盲目の馬だといって、難をしめした。その訳は、馬は草をたべるとき、草で、自分の眼が傷つくと困るので、反射的に眼を閉じるという。眼を開きながら草を食うのは盲目の証拠といわれた。
また、鶏を描いて祇園神社に納めたが、これをみて、上手いが、まだ足りぬところがあるという。なぜというに、鶏は四季によって、羽の色を変える。廻りの草花と時節があっていないというのだ。後に応挙は、実写することに心懸けたという。うそのような本当の話。

旧暦 新暦 2007年度
寅;いん 一月 初春、孟春月 睦月 2月18日〜3月18日
卯;ぼう 二月 仲春、 如月 3月19日〜4月16日
辰;しん 三月 晩春 季春月 弥生 4月17日〜5月16日
巳;し 四月 初夏 孟夏月 卯月 5月17日〜6月14日
午;ご 五月 仲夏 皐月 6月15日〜7月13日
未;び 六月 晩夏、季夏月 水無月 7月14日〜8月12日
申;しん 七月 初秋、孟秋月 文月 8月13日〜9月10日
酉;ゆう 八月 仲秋 葉月 9月11日〜10月10日
戌;じゅつ 九月 晩秋、季秋月 長月 10月11日〜11月9日
亥;がい 十月 初冬 孟冬月 神無月 11月10日〜12月9日
子;し 十一月 仲冬 霜月 12月10日〜1月7日 2008年
丑;ちゅう 十二月 晩冬 季春月 師走 1月8日〜2月6日
旧暦で、十二支での月の表し方は、寅からはじめる。是は、うごめくからきている。
2007年、平成19年、初春一月は、旧暦ではまだ、前年の11月13日で、旧正月は太陽暦の2月18日にあたり、この日が旧暦の初春である。
これに対し、前年の旧暦で、平成18年の7月大の次月に、閏7月小がおかれたためで、それでも新暦は42日、1ヶ月半ほど旧暦を先行する。
来年の2008年の旧正月は2月7日で、これでも、今年2007年より、11日ばかり旧暦が繰り上ってくる。太陽暦、新暦は旧暦より37日分、1ヶ月と一七日ほど、先の暦となっている。
新暦、2007年1月は柳宿、九星の月命は辛丑三碧木星。正月元旦は、月曜日、乙未;きのとひつじ、日の出は東京で、6時51分。究極の初日の出はダイアモンド富士で、ナビで観察場所、時刻が特定できる。
新暦の1月6日が小寒で、旧暦の11月18日にあたり、大寒は新暦の1月20日で、二十四節気の最後で、小寒から2週間後で、旧暦の12月2日にあたる。
臘日が1月22日、旧暦の12月4日である。臘日とは、この大寒にちかい辰の日をいい、神事、嫁とりに凶とされる日で、新暦の1月22日、旧暦の12月4日、丙辰ひのえたつ、にあたる。また、大晦日のことも臘日という。
成人の日は、1月の第2月曜日と設定されている。現在、日本では成人は20歳以上をいい、社会的責任は自身で持たなければならない。この日を国民の祝日にあてられたのは昭和23年からで、1999年、平成11年まで、1月15日になっていたものが、2000年、平成12年から第2月曜日に変更された。したがって、平成19年では、7日が日曜日で、8日は月曜日になり、成人の日の休日で、連休である。
新暦の2月1日は旧暦の12月14日で、2月3日の節分は旧暦の12月16日で、二十四節気の最初の立春は、新暦の2月4日で旧暦の12月17日にあたる。
立春は旧暦では前の年になることもあり、ことしは旧暦の12月17日にあたる。このように、立春は、暦で年を行き来、するので、古今集の春歌上の巻1 在原元方の
年のうちに春は来にけり ひととせを こぞとやいはん 今年とやいはん
新暦の2月11日が建国記念日で日曜日のため、2月12日の月曜日は振り替え休日。2月18日が旧暦の元旦にあたり、雨水が新暦の2月19日で、旧暦の正月2日である。

睦月、むつき。知人、親戚が睦まじく会う月という意味で、一陽来復、頌春。
新暦の3月3日は旧暦では正月の14日で、3月6日が啓蟄、新暦の3月13日が奈良春日大社祭の若狭井のお水取りである。旧暦の正月の23日で、新暦の3月18日は彼岸の入りで、旧暦の正月晦日である。
この頃から、春めいてくるが、むかしからよく言った者で、暑さ寒さも彼岸まで。
正月の飾りは鏡餅で、地方によって、供え方がちがうが、橙(だいだい;代々)、昆布、干し柿、鯣(するめ)、鏡餅は二段をかざる。方法は上から橙、餅、御幣(ごへい;四手;赤白の魔除けの半紙)、餅、その下に裏白(羊歯;シダ)を敷き、その下に四方紅の色紙を敷き、これらを三方(さんぼう)におく。
その外、上に伊勢エビ、その下に干し柿をおいたり、譲葉(ゆずりは)、昆布を御弊のかわりに用いたりする。鏡は八咫鏡からきており、鑑みるの、かんがみ、からきていると謂われる。
四角なのに三方とはこれ如何に。三方とは、桧の白木で造る四角い供物用の台で、台の部分の三方に刳形(くりかた)もしくは眼象(げんしょう)といわれる宝珠の孔があるので、さんぼうといい、孔のない側を奥に向け、床の間に具足を飾り、その横に鏡餅を置く。此の逆の説もあり、先ず最初にお供えするときは孔のない側を手前にし、拝礼ののち、これを回して奥におきかえるともいう。孔の4つのものを四方といい、無いものを供宴(くぎょう)という。
床の間の「蓬莱」は、鶴と亀が遊ぶ理想の島で、正月に蓬莱飾りをする。
おせち、お節料理の具、数の子は子孫繁栄、田作り(ごまめ)は五穀豊穣、蓮根は見通安泰、海老は長寿、黒豆は忠実、慈姑(くわい)は開運、紅白膾(なます)は慶賀、昆布は慶事祝福、栗は出陣勝利の祝いをあらわす。京では、これらを八坂神社の吉兆縄で、もらってきた火の「おけら火」で、火を起こし炊きます。
2日、初荷、初夢、書き初め。2日に見る夢が初夢で、「一富士、二鷹、三茄子」を目出度いとする。茄子は実を結ぶ、為す、事を成す、からきている。
三番叟(さんばそう;叟は、おきな、翁の意味)、金に黒縞に、日の丸をつけた烏帽子で、飄逸な格好で正月を祝し、五穀豊穣を願い踊る。謡曲『翁』からきている。
『翁』は謡、能のなかでも、きわめて古くからの歌舞で、三部構成になっていて、式三番(しきさんば)ともいう。作者不詳であるが、世阿弥の花伝書に、聖徳太子が神儀として、申楽舞を奏すれば、國穏やか、民静か、寿命長遠となるといい、村上天皇が申楽をもって天下の御祈祷となすべしとて、秦氏安が66番の申楽を紫宸殿にて奉ったのがはじまりとされている。
黒い翁の面をつけ、金に黒すじの剣先烏帽子をつけ、神楽鈴を鳴らしながら、とうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう、ちりやたらりたらりら。たらりあがりららりとう。所千代までおはしませ、われらも千秋さむらはう。鶴と亀との齢にて、幸ひ心に任せたり。鳴るは瀧の水。千歳舞で、君の千歳、瀧の水日は照る、千振る、神のひこさの昔より、千年の鶴は、萬歳楽と謡うたり。天下泰平国土安穏。翁舞(神楽)として萬歳楽、萬歳楽、満歳楽と舞う。折烏帽子を三番叟の烏帽子にかえて、舞う。これらが転じて三番叟とは物事の始まりをいい、これを「春の予祝」といった。
正月は、おとこのこは凧揚げ、双六、独楽回しであそび、おんなのこは羽子板をしてあそんだ。初詣の破魔弓は魔を破る事から、男子の初正月に弓矢を贈り、女子には羽子板で祝う。
祭では、正月三が日まで正月を祝い、6日は小寒、7日は人日といって七草を頂く。関東では7日までを松の内という。11日が鏡開きで、15日が小正月である。
小正月というのは、旧暦で、元旦、朔日が新月で(新暦の2月18日)、いわゆる大正月であるが、満月をむかえる15日目を小正月(女正月)といった。小豆粥を食すが、赤は血、生命の象徴で陽の気を封じ、厄除けとみていた。白は清浄。新暦での小正月は月の満ち欠けと関係なく1月15日としている。旧小正月は新暦の雛まつりの次の日の3月4日である。
江戸の雪見は愛宕山、長命寺、山王で、着物に寒中氷の亀裂をデザインを施す。これを、氷竹文(ひょうちくもん)といって、江戸人は粋と渋みを楽しんだ。
さて、『金色夜叉』の名科白に新暦での1月17日という日付がでてくる。尾崎紅葉(1868-1903)は慶応3年うまれで、帝国大学卒業後、小説家となり、金色夜叉を1897年、明治30年1月から明治36年1月まで、6年間かけて、読売新聞に連載され、爆発的流行となった作品である。
この前編の第8章に、
「ああ、宮(みい)さん、こうして二人が一処に居るのも今夜限りだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限り、僕がお前に物いふのも今夜限りだよ。
1月17日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此の月を見るのだか。再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・可いか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから・・・・」
この科白の日付は旧暦を知っていてのことである。新暦の明治30年1月17日は、旧暦では明治29年12月15日で、十五夜、満月である。もし、これが旧暦の、1月17日の月であれば、十七夜で、下弦の立待月ということになる。
明治30年になっても、大衆は、まだ旧暦で、暮らしていたのである。したがって、諄いが、この明治30年1月17日は、旧暦の15日にあたり、十五夜で、満月の夜であるが、来年の明治31年1月17日は、旧暦の明治30年12月25日で、月は下弦の半月の廿五夜で、満月ではない。
再来年の明治32年1月17日は、旧暦で、明治31年12月6日で、上弦ではあるが六日月、十年後の明治40年1月17日は旧暦の明治39年12月4日で、上弦の四日月である。 1月17日の満月を涙で曇らせるならば、正確には22年後の1919年、大正8年1月17日で、やっと満月に近い月になる。
さぞかし、来年のお宮は、嘘つきの貫一さんといってシラケていたであろう。尾崎紅葉は太陰・太陽暦と太陽暦とのズレを正確には理解していなかった。
菓子暦で、京の和菓子で季節感を味わうのもよい。睦月の京菓子は、初春用で、菊寿、巌(いわお)、代々、雪梅、万両、福笹、下萌などで、
季節の銘として、高砂、若水、初音、東風、若菜、鶴寿、青海波、瑞祥、薄氷(うすらい)、河豚に梅、下萌、花の兄などがあげられる。
東風(こち)とよみ、二十四節気の七十二候の一が、東風であり、旧暦での元旦から4日までのことで、新暦の2月18日から2月22日のころが第一候である。
東風吹かば 匂いをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
ご存知、菅原道真の太宰府でのうた、『十訓抄』第6。この梅は一夜にして、京から太宰府にとんだという飛梅伝説。紅梅殿とは道真公邸のことで、石上の芸亭にならぶ。紅梅匂(こうばいこう)は、襲(かさね)の色目をいう。
鶴寿(かくじゅ)とは、長命のことで、鶴は千年の寿を保つという。
青海波は、セイガイハとよむ。能装束や小袖の柄にもちいられる、小波小波の重ねの有識文様をいう。謡曲『高砂』に、四海波静かにて、国も治まる時津風。・・・高砂や、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出汐の、波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住之江に、着きにけり。・・・・松影も映るなる、青海波とはこれやらん。と謡われ、雅楽にも盤捗調の唐楽舞がある。
波の種類に、玉の波、四筋波、雲珠波、いら鳥青海波などがある。
薄氷はウスライとよむ。薄氷に閉ぢたる冬の鶯は・・・・、齋宮女御集。
河豚に梅、フグと梅の意匠を考えつくのは、博多であろうと推測される人も多いが、江戸の河野春明(1787-1857)で、装剣小道具製作の金工横谷派の柳川春明の門人。河豚料理の箸置きに梅の小枝が添えられていれば粋でしょうね。
下萌はシタモエとよみ、地中から芽が生えでることをいう、下萌急ぐ延べの若草。
花の兄とは、花木、百花の中で、もっとも、早く咲くので、梅をこう呼ぶ。弟はあとで咲くので、菊をさす。
啓蟄は新暦の3月6日、旧暦の1月17日であるが、啓蟄で思い出すのが、『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」。この姫は変わっていて、隣邸の姫は蝶々が好きなかわいい女のこなのに、しかし、この按察使大納言(あぜち)の娘は毛虫の方がだいすきで、蛇が大好きの、蓼食う虫も好き好き。一人の少年が悪戯をかんがえ、蛇に似たおもちゃを帯でつくって、手紙とともに進呈した。これをあけた侍女たちは、飛び出した蛇に仰天驚き、父君にしらせる。おっとり刀で、父君はかけつけ、よく観ると作りものではないか。返り事をして早く遺りた給ひてよ。早く返事の手紙を書いておきなさいよといわれる。
奈良東大寺の二月堂のお水取り、お松明は、修仁会で、良弁の弟子の実忠和尚の発案で天平の勝宝、752年から連綿と続く春を呼ぶ法会である。いまは3月12日の深夜からおこなわれるが、旧暦の2月1日におこなっていて、修二、修仁、二月堂と名付けられているのである。お水とは、若狭井の井戸から観音さまにお供えする、「お香水;おこうずい」のことである。1667年、寛文7年に二月堂が炎上、焼失している。このとき、本尊も、写経も焼け焦がれたものが、二月堂焼経として残っている。今、この焼経に驚愕の高値がついているという。
旧暦の大晦日は新暦の2月17日にあたり、和布刈神事(めかりしんじ)といい、門司ではじまった。引き潮の時、即ち元旦、朔日、新月の日に海にはいると海水が割れ、海底に入り、和布(わかめ)を鎌で刈りとるという行事である。
豊前國長門國で、早鞆明神で、毎年大晦日寅の刻に神主が海中に入って、水底の和布を刈りとり、神前に供える神事で、懐中の仲哀天皇が三韓征伐から帰国の歳に神社をたてられ、この行事がおこなわれたと考えられるが、古事記にも、日本書記にかかれていない。謡曲、能に『和布刈』として残されていて、和布刈神事が醍醐天皇の皇子重明親王の李部王記に記載されており、古代からおこなわれていたことがわかる。
新暦の2月後半が、旧暦の正月で、やっと、春を迎えた頃。新暦の2月18日が、月令は新月で、旧暦の正月朔日、元旦である。
この日は山形県の櫛引町で、黒川能という、世阿弥の申楽能の流れをくむ、500年の歴史のある能が王祇祭として奉納される。能540番、狂言50番という、延々、能の舞いが続けられる。
新暦の3月4日が旧暦の小正月であり、3月6日が啓蟄で、旧暦の1月17日にあたる。
3月6日が啓蟄。新暦の3月は旧暦の2月であるが、二月節の啓蟄の日は旧暦2月17日、卯の月の正節で、春雷が鳴り始める。啓蟄を虫出しともいう。
初春を詠った和歌に、
新古今和歌集の春歌上の1
み吉野は 山もかすみて白雪の ふりにし里に 春は来にけり
金槐和歌集で
今朝みれば 山も霞て久方の 天の原より 春は来にけり
紀貫之の二首、拾遺和歌集
あだなれど 桜のみこそ旧里の 昔ながらの物にはありけれ 48拾遺
梅もみな 春近しとて咲くものを 待つ時もなき 我やなになる 1157拾遺
新暦の3月3日は雛祭で、平成19年3月4日に皆既月食がおこります。すぐに、月没になってしまうので、日本では観察出来ない。

如月、きさらぎ、着物を更に重ね着る、衣更着からきている。新暦の2月は星宿、壬寅二黒土星。新暦の2月1日は、旧暦の師走の12月14日である。旧暦の元旦は新暦の2月18日にあたる。
新暦の3月19日には関西方面で、部分日食が起こる。8月28日に皆既月食、9月11日に部分日食がおこるがいずれも日本では観察不可能。
冠としては新暦の2月3日が節分で、2月4日が立春。2月5日が初午。2月11日が神武天皇即位の建国記念日で、この日は日曜日なので、次日の月曜日の12日は振替休日で連休。
節分で、またまた、再登場の『三人吉三廓初買』のお嬢の名科白。三人吉三とは、お嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三で、ことの起こりは、安森家に伝わる頼朝公から預かった名刀庚申丸が何者かに盗まれた。これで、家主の安森源右衛門は切腹、お家断絶。長男の吉三が無頼の徒になってしまい、お嬢吉三になりさがる。妹は吉原の丁字屋の花魁の一重で、苦界に入る。
庚申丸は川底から発見され、小道具や木屋に持ち込まれる。これを海老名軍蔵が百両で買い取り、木屋の手代十三郎が刀を届け、この金を持ち帰る途中、娼婦夜鷹おとせとあそんでしまい、この時に百両を落してしまう。おとせが拾い、十三郎をさがしに、大川の畔の庚申塚までやってくる。序幕、大川端庚申塚の場、そこで、お嬢吉三にであう。おとせは大川になげこまれ、百両を手に入れたお嬢吉三は、
お嬢
はて臆病な奴等だな、むむ、道の用心ちょうど幸い。
月も朧に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、塒へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で泡、おもいがけなく手に入る百両、ほんに今宵は節分か、西の海より川のなか、落ちた夜鷹は厄落とし、豆たくさんに、一文の銭と違って金包み、こいつは春から延喜がいいわえ。
こいつをみていたお坊吉三が、この百両を手にいれようとお嬢を強請る。そこへ和尚吉三があらわれ、庚申の日で三尸に三匹の猿がしらせてはならずと今日のところは庚申堂の土器(かわらけ)で、かための血盃となる。譬えにもいう、手の長い、今年は庚申年に。庚申堂の土器で義を結んだる上からは。のちの証拠に三疋の額につけたる括り猿。
廓初買(くるわはつがい)は文里の廓通いと初春狂言をきかせたもの。そして、最期は五幕目大切、本郷火之見櫓の場で、吉三が三人がそろって、三ツ巴で、廻る因果で三人は町方に捕らえられ、幕。
菓子暦では、寒紅梅、夜の梅、うぐいす、春の野、初音、雪間の草、北野の梅、青柳、蕗の薹、未開紅、北野の春、余香。どうです、見事でしょう。季節を手にいれるには京の和菓子にかぎりますです。
和菓子は季節の先取りで、新暦の1月の中旬には梅の用意がされている。
ここで説明が必要なのが、夜の梅。
桜は、目かつらを買って、花見物にでかけるが、夜間になると桜は、明かりがないと見物できない。しかし、梅はその香りが強いので、夜中、闇でも家の中にいても、立春の寒さに耐えて窓を開けて、その梅香を楽しむことができる。
梅を歌った大正3年の尋常小学唱歌に「夜の梅」というのがある。
梢まばらに咲初めし 花はさやかに見えねども
夜もかくれぬ香にめでて 窓はとざさぬ闇の梅。
花は小枝もその儘に 写る墨画の紙障子
薫りゆかしく思えども 窓は開かぬ月の梅。
作詞は芦田恵之助、作曲が、岡野貞一である。芦田は東京高等師範学校附属小学校の訓導(教諭)。岡野はうさぎおいし、かのやま・・・の故郷、朧月夜の作曲家。3/4拍子の曲を得意とした。

雅で、艶なる風情ではないか。この「夜の梅」は江戸元禄の時代から残された言葉で、江戸当時の羊羹の虎屋は、店の羊羹に、この洒落た「夜の梅」を銘名に使った。和菓子といっても羊羹で、その切り口に小豆がちょこっと出てくるところを夜の梅にみたてたのである。洒落た命名で、一ひねりした、粋な菓銘で、いまもこの名で羊羹の名品として、商標登録されて販売されている。
鶯は、万葉集巻19の4290
春の野に 霞たなびきうら悲し この夕かげに 鶯鳴くも
季節の銘、貝寄風、鳥曇り、初燕、鶯宿、春告鳥、風待草、常磐桜、清香、東雲(しののめ)、横雲、朧月夜、胡蝶、帰雁、初桜、踏青、雪間。
春一番の疾風が南から吹き上げる。旧暦の如月2月15日は新暦の4月2日にあたり、この時の風を涅槃西風といい、貝寄風(かいよせ)は、旧暦の2月22日頃ふく風で浜辺に貝をよせるのでこういう。彼岸西風は旧暦の2月23日頃の風をいう。旧暦の2月21日、新暦の4月8日が釈迦の誕生日の花まつりである。
春は気候が不安定で、花曇り、などと表現し、曇りがちの日が多い。春雷、春嵐となることもある。鳥曇り、というのは、雁などの候鳥が、曇りがちの日に北に帰って行く季節の気候をいう。
鰆東風(さわらごち)、雲雀東風(ひばりごち)、桜東風(さくらごち)などの言葉がのこされている。旧暦の2月、新暦の4月の中旬ころより、燕が南から飛んでくる。
鶯宿(おうしゅく)とは、『大鏡』などにでているが、村上天皇が、清涼殿の梅が枯れたので、紀貫之の女の庭の紅梅を移植させたが、女が「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ」との歌が送られてきたので、天皇は鶯に申し訳ないとて、すぐに梅の木を返えされたという。
春告鳥(はるつげどり)は当然、鶯。
風待草とは梅のことである。清香(せいこう)も梅の香りのこと。
水戸偕楽園の梅まつりは、新暦の2月20日、旧暦の正月3日から約1ヶ月つづけられる。
桜草、濃いピンク色の花をつける、別名常磐桜、乙女桜、雛桜ともいう。垣根に一杯、咲き誇るが、最近はめっきり減少し、絶滅危機種といわれている。
東雲はあけぼののこと。しののめの別れを惜しむは、朝帰りのこと。
東雲の ほがらほがらと 初桜 内藤鳴雪
横雲、よこぐもは春の季語で、新古今集巻1春歌上の38藤原定家に、「春の夜の 夢の浮橋とだえして 峰にわかるる 横雲の空」。
朧月夜、小学唱歌に『朧月夜』、高野辰之詞、岡野貞一曲、
菜の花畠に、入り日薄れ、みわたす山の端 霞み深し。
春風そよ吹く、空を見れば、夕日かかりて、匂い淡し。
里わの火影(ほかげ)も、森の色も、田中の小路をたどる人も、
かわずの鳴くねも、鐘の音も、さながら霞める 朧月夜。
新暦の3月21日が春分の日で、水曜日の休日で、旧暦の2月3日。その後、一週間後から桜前戦が気になる季節になる。
世の中に たえて桜のなかりせば 春のこころは のどけからまし
花見、花見物は桜の観賞をさし、他の花の見物、鑑賞については花見とはいわない。日本では桜だけは特別で、これもお日柄もよろしくなってくる季節、春と重なって特別なのである。新暦の3月下旬から4月上旬にかけてであるが、旧暦の2月中の清明をめざし咲き誇る。望月は旧暦の2月16日は、新暦の4月3日にあたり、清明が5日である。
『西行桜』は世阿弥の自信作。花見に押し寄せた人々を嘆く西行の夢まくらに、さくらの老木の精があらわれ、無心に咲く花に罪はあらじと告げて去る。「恥かしや老木の、花も少なく枝朽ちて、あたら桜のとがのなき由を申し開く花の精にて候なり。凡そ心なき草木も花実の折は忘れめや。草木国土皆成仏の御法なるべし」。
春の夜の夢。西行の忌日は旧暦の2月16日で、願はくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ、新暦の4月3日にあたる。日本人にはひとりひとり、桜をおもう思想をもちあわせている。
江戸の花見は小野佐和子さんが考察されているが、寛政のころから幕末にかけて、手習いの師匠が多数の弟子をひきつれて花見にでる姿がめだち、上野、飛鳥山、向島、御殿山にくりだし、水戸藩の加藤曳尾『庵の我衣』に、三月中ごろ、花見小袖でおめかしし、そろいの手ぬぐい、そろいの着物、日傘、で、花見にでかけているが、天保の改革で一時すがたを消すが、弘化にはいって、幕末、明治までつづいたという。
落語の『長屋の花見』では、貧乏長屋で大家が全員集合をかける。集合をかけられた長屋の住民は家賃、店賃の催促と勘違いするが、上野の山へ、皆で桜見物にでかけるが、貧乏なので、毛氈がなく筵(むしろ)、酒は茶、切溜(きりだめ;弁当箱)だけは大家が用意したが、とつおいつ(取りつ置きつ)の中、中身も貧乏なので、卵焼きのかわりに黄色いたくあん、蒲鉾のかわりに白い大根というありさま。桜の花を愛でる贅沢な気分だけで十分、胸いっぱいになる。さけも贅沢な弁当も不要。しかし、やっぱり、空腹には耐えられぬ。
落語の『花見酒』のほうは、不景気で辰と熊、同士でぼんやりしてる。米はきれる、醤油はきれる、薪はきれる、炭はきれる、畳はきれる、おまけに、アカギレがきれる、なさけねな、きれないものはねーのか、包丁。辰は銭儲けのはなしをもってくる。大勢が花見にでかけているので、花見名所に酒を運んで、これを売って一儲けしようと熊はかんがえた。しかし、酒を買う金がない。そこで,名案。樽一斗を後払いとして、釣銭の十銭も酒屋からかりてきた。
さー、花見所まで運ぶ途中で、辰はいい酒のにおいで、我慢できず、チョット一杯を飲みたいといったが、熊は金をはらわないとダメだという。辰は釣り銭があることに気づき、十銭を熊にわたして一杯頂戴する。少し出かけたところで今度は熊が酒を所望する。熊は十銭を辰にはらって一杯頂戴。
少し歩をすすめたところで、我慢ができず、今度は辰が熊に金をわたし、一杯。これが続き、夕時に花見に着いた頃には、すっかり酒はなくなっていて、金儲けもできず、十銭がのこっただけ。これが、バブルを生む日本の経済だと笠氏はいうのである。
踏青というのは、緑草をふんで、春の野を散歩することをいい、野の菫、蒲公英(たんぽぽ)、土筆(つくし)が出始める。桃青は芭蕉の俳号で、「芭蕉庵桃青」。
雪間とは雪が消えたところをいう。謡曲『求塚』があって、能の4番目で、複式夢幻能
で、西国の僧が、京に上る途中、摂津国生田の里にたどり着き、春をたのしむ。野沢の若菜今日摘まん。雪間を待つならば若菜ももしや老いもせん。水も緑も春浅き、紫の菜、菫摘みにと、若紫を探しに行き、三人の若い娘にであう。ここで、求塚の道をたずねると、娘に一人が案内してくれた。求塚の物語、小竹田という男と、血沼という大丈夫と、一人の女と三角関係の末、三人とも鴛鴦となれず、生田川に身投げして死でしまう。僧は地獄の亡者を念仏にて救う。
冠としては、学校の新学期、入学式である。4月1日はエイプリルフールで、親鸞誕生会の日。4月8日は花まつりで、釈迦誕生日。

弥生、やよい、草木が、いよいよ生い茂る「いやおい」の月、張宿。癸卯一白水星。
和名月として、祓月(はらえずき)、禊月(けつげつ)で、季節の変わり目に、禊ぎをして、身体の穢れを祓いのける月であるために、この名称があるが、竹の秋(たけのあき)というのは後に説明する。
越天楽に、春の弥生の曙に、四方の山辺を見渡せば、花盛りかも 白雲の かからぬ峰こそ なかりけれ とうたわれる弥生の季節。
菓子暦、早春、はるよい、蕨餅、都の春、菜の花金、春霞、初春、桜重、花筏、春の山、桜餅、春の宵、柏餅など。
説明の必要な菓銘はないが、桜餅は東西で姿が全く違う。長命寺餅は小麦粉で桜色に焼いた薄い皮で、餡をまき、これを桜の葉で刳るんだ餅で、道明寺は道明寺粉で粒状の衣で、餡を入れたチョット、べたとしているのを桜の葉で撒いたものである。
季節の銘は、祓月(はらえづき)、木の葉採月、流し雛、竹の秋、揚雲雀、羽衣、花霞、夢見草、花冷え、花衣、曲水、長閑、若草、香具山、春雷、春嵐、惜春、佐保姫、鐘朧、朧月、穀雨、葵祭。
祓月は、流し雛にみられるように、春の季節も終盤で、夏にむけての浄めのためのお祓いがおこなわれるため、祓月といわれる。
桃の節句、上巳で雛祭り。帝が向かって左に座位されるのは江戸風、右が京風であり、名古屋では右が多いようだ。
雛祭りでも、流し雛があって、旧暦の3月3日の上巳は、新暦の4月19日で、季節の変わり目で、この日に身の穢れを人形(ひとかた)に移し、これを、川や海に流す習慣で、鳥取県用瀬、岡山県笹岡では、現在でも旧暦でおこなっている。
穀雨が4月20日で、旧暦の3月4日である。新暦の4月29日は昭和天皇の誕生日で、昭和の日である。そして、日曜日であるため、30日が振り替え休日で、5月1、2日は通常開業で、5月3日は憲法記念日、5月4日がみどりの日、5日はこどもの日で、6日は立夏で日曜日、旧暦の3月29日である。長良川の鵜飼開きは新暦の5月11日で、新暦の5月13日が母の日。京都葵祭が5月15日におこなわれる。
竹の秋というのは、春の季語で、これは竹の葉は、春に紅葉、紅葉といっても黄色くなるので、これを竹の秋といい。この逆の秋に青々となるのを竹の春という。
竹花生といって、竹の節間をきりぬいた、利休がよくつかう花入れがあるが、これを青生竹で作成して、水をいれると、立ちどころに割れてしまうので、注意が必要。
羽衣は、鳥の羽で作られた、薄く軽い衣のことであるが、謡曲の世阿弥作で、三保の松原に、弥生のころ、降り立った天女が松に羽衣をおきわすれ、漁夫の伯竜がみつける。
羽衣がなければ天にかえれないので、かえしてほしい。白龍は天人の舞いをみせてもらえれば返すという。天女は、この富士と松原の弥生の景色は天にも優ると讃え天に舞い戻る。
夢見草は桜の異称である。
曲水は、庭、山林で、まがりくねって流れる水のことをいい、曲水の宴が3月の上巳におこなわれるので、季節銘が三月で、ごくすいのえん、めぐりみずのあかり、ともいう。
香具山は、耳成山、畝傍山とともに大和三山のひとつで、この季節に樹木生繁茂するのをとらえて、弥生の季節銘となっている。
佐保姫は春を司どる女神、春は東で、奈良の東にある佐保山からとった。春の山を山笑うとも表現するが、桜のももいろに女神が微笑むしぐさをとった。機織り上手のこの姫は、霞は衣のそで、おぼろ月を簪(かんざし)に見立て、長閑な春の夜を楽しむ。謡曲では『佐保山』に登場する。
春の最後の節気が、穀雨で杏花雨、きょうかう 、菜種梅雨、なたねづゆともいい、穀物などの発芽に必要な雨で、このあと、関東では水田の作成、苗植えがはじまる。
そして、旧暦の3月16日、新暦の5月2日が八十八夜で、茶摘みの頃となる。茶木の一番茶、一芯二葉を摘む。二枚の若葉のついた芽の先端を摘み、玉露、煎茶の最上級として用いる。以後、二番茶は7月、三番茶は8月で、陽をあび、養分が豊かになってくる。
私は、クリニックで、狭山の茎茶を茶香炉として利用している。煎茶の葉より、茎のほうが香りは強く、香ばしいので、茎茶にかぎります。茶の文化史について他コラムで詳しく述べます。
二十四番花信風とは、小寒の旧暦の11月18日、新暦の1月6日から、穀雨まで旧暦の3月4日、新暦の4月20日の約4ヶ月の5日毎の開花のたよりをいい、順に、
小寒; 梅、山茶、水仙、
大寒; 沈丁花、蘭、山礬(さんばん不明)
立春; 黄梅、桜桃(ゆすらめ、さくらんぼ)、辛夷
雨水; 菜の花、杏、李、
啓蟄; 桃、山吹、薔薇、
春分; 海棠、梨、木蓮、
晴明; 桐、麦、柳花、
穀雨; 牡丹、荼微、栴檀
春の花草木のたのしみは、この花風信にかぎります。
桃の木は、中国では仙木で、三千年草(みちよぐさ)、三千歳といわれ、邪気、鬼を払い、その木で、杖や護符にし、長寿を祈った。
29日は昭和天皇誕生日で、昭和の日として、国民の祝日である。ゴールデンウィークにはいる。
旧暦の3月20日は、新暦の5月6日で、すでに立夏である。春は終わり、夏にはいっていく。
そして、新暦の5月12日は神田祭り、5月15日は葵祭。
葵祭りには柏の葉と葵の葉がつかわれる。京都、加茂神社の祭りで、三つ葉葵は徳川の家紋であるが、葵紋は、もともと、京都加茂神社の神紋で、牛車、衣、冠に、柏葉とともに、葵の葉の唐草文で装飾される。
京都の加茂神社は、御所の北西にあり、北の上賀茂神社は、神山のふもとにあり、賀茂川の畔にある。下鴨神社は、北西から流れる賀茂川と北東からながれる高野川との合流部にあり、川はここで合流したあと、京都市内東をながれる鴨川と字体がかわる。
上賀茂神社の祭神は「賀茂別雷大神;かもわけいかづらのおおかみ」で、雷(いかづち)の御威により厄を祓い、あらゆる災難を除く、落雷の守護神で、桓武天皇の御代に造営せられた。
賀茂祭を葵祭といい、これは、太古の別雷神(わけいかづちのかみ)が神山に降臨された時に、榊さかき(賢木)、葵を取られた。この故事にしたがって、綾色の飾りを走馬に付け、葵楓(あおいかつら)の蔓で装って、この祭りがおこなわれたので、葵祭といい、葵祭りがおわると、いよいよ夏である。
下鴨神社は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られている賀茂御祖(かものみおや)神社で、崇神天皇のころに造営されていたという。今も、縁結びの神として、参詣者が多い。もともと、両河を浄める神社とかんがえられる。

旧暦の4、5、6月が夏である。
卯月、うづき、翼宿。甲辰九紫火星。卯の花(空木;うつぎ)が咲く月。4月1日は、旧暦の4月1日は夏にはいり5月17日である。この日は更衣の時節であり、夏に入っていく。5月21日が小満で、旧暦の4月5日で、蚕がさかんに桑葉を食べる頃となる。そこで木の葉採月ともいう。
三社祭りは浅草神社の祭礼で、檜前浜成、竹成、土師真仲知の三社明神の祭りで、新暦の5月20日、第三日曜日が最終日となる4日前からおこなう。旧暦の4月4日である。
芒種が6月6日で、旧暦の4月21日で、6月11日が入梅で、旧暦の4月26日である。
卯の花をうたったのは『夏は来ぬ』。佐々木信綱詞、小山作之助曲
卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて 忍び音もらす 夏は来ぬ。
五月雨の注ぐ山田に 賤(しず)の女が裳裾(もすそ)ぬらして玉苗植うる 夏は来ぬ。
橘の薫る軒場の窓近く 螢飛びかい おこたり諫むる 夏は来ぬ。
棟(おうち)ちる川べの宿の門遠く 水雛(くいな)声して 夕月すずしき 夏は来ぬ。
五月やみ螢飛びかい水雛なき 卯の花咲きて 早苗植えわたす 夏は来ぬ。
菓子暦、花見団子、小山餅、野、若牡丹、新青柳、春霞、花水木、麦手餅、水山吹、躑躅、藤、花橘、鉄線、燕子花、新緑。
季節の銘、鳥来月、木の葉採月、薫風、青嵐、緑蔭、青苔、青楓、石清水、呼子鳥、若竹、若鮎、初鰹、時鳥、一声、歌占、螢籠、麦秋、澤瀉、落とし文、君影草
鳥来月(とりくづき)というのは、卯月の万緑の季節で、時鳥、駒鳥などの夏鳥や、頬白、留鳥が、木々の実をあさりにきて、騒がしくなる季節からなづけられた。
木の葉採月(このはとりづき)というのは、蚕にたべさせる桑の葉を摘む季節なので、この名がある。蚕は種紙(たねがみ)の上で孵化させ、蚕座(こざ)に掃き立てて育てる。脱皮して、1ヶ月後に藁でできた蚕棚にうつして、繭をつくらせるが、これを上蔟(じょうぞく)という。
薫風と青嵐は、緑蔭なす、青葉、青楓の香を吹きおくる初夏の南風をいう。
青苔、せいたいとよみ、海苔菜、青海苔、あおのりのことで初夏の季語になっている。
呼子鳥、よぶこどりは、郭公で、カッコウのこと。万葉集に収載されたうたは、
大和には 鳴きてか来らむ呼児鳥 象の中山 呼びこゆなる
巻1-70
神なびの 石瀬の社の喚子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋まさる
巻8-1419
世の常に 聞けば苦しき喚子鳥 声なつかしき 時にはなりぬ
巻8-1447
瀧の上の 三船の山ゆ秋津辺に 来鳴き渡るは 誰喚児鳥
巻9-1713
我が背子を な越しの山の 喚子鳥 君呼び返せ 夜の更けぬとに
巻10-1822
春日なる 羽がひの山ゆ 佐保のうちへ 鳴きゆくなるは誰れ喚子鳥
巻10-1827
答へぬに 名呼びとめそ喚子鳥 佐保の山辺を 上り下りに
巻10-1828
朝霧に しののに濡れて喚子鳥 三船の山ゆ 鳴き渡る見ゆ
巻10-1831
朝霧の 八重山越えて喚孤鳥 鳴きや汝がくる宿もあらなくに
巻10-1941
若竹、若鮎は鵜月に相応しいことば。
初鰹、「目に青葉、山ほととぎす 初松魚」は山口素堂の作。初松魚は鰹のことで、ほかに、鮎、鱚、穴子、飛び魚、岩魚が旬だ。鰹には鰹色利(いろり;煮だし汁のこと)、鰹木(社の棟木の上に横たえ並べた装飾)、鰹鳥(海鳥で、おさどりともいう)、鰹縄(屋根葺きに使う麻縄のこと)、鰹の烏帽子、鰹の冠(ヒドロ虫腔腸動物)などがある。松魚は目出度いのは松で、目出度い魚で、松魚とかいて、カツオ。
時鳥、ほととぎすは、田植鳥、不如帰、沓手鳥、霍公鳥、杜鵑、杜魂、蜀魂、子規、郭公と書き、夏を告げる、一声が待たれ、好個の歌題となってきた。ほととぎすと鳴くか、てっぺんかけたか、特許許可局とも聞こえる。やまから運ぶ夏の便りが時鳥で、初夏の季語である。
万葉集のほととぎす
霍公鳥 き鳴きとよもす 卯の花のともにや 来しと問はましものを
巻8-1472
卯の花も いまだ咲かねば霍公鳥 佐保の山辺に 来鳴きとよもす
巻8-1477
朝霧の 八重山越えて霍公鳥 卯の花べから 鳴きて越えきぬ
巻10-1945
かくばかり 雨のふらくに 霍公鳥 卯の花山に なほか鳴くらむ
巻10-1963
古今和歌集の巻3、夏歌
夏山に なくほととぎす 心あらば もの思うわれにこえ聞こかせそ
145
夏山に恋しき人やいりにけむ声ふりたてて鳴くほととぎす
158
むかしべや今も恋しきほととぎす ふるさとにしも鳴きてきつらむ
163
新古今和歌集には49題あり、その一部
郭公 こえ待つほどはかた岡の 森のしづくに 立ちや濡れまし
191 紫式部
雨そそぐ 花たちばなに風すぎて山ほととぎす 雲に鳴くなり
202 俊成
時鳥 こえをば聞けど花の枝にまだふみなれぬ ものをこそ思へ
1045 法成寺
一声は、ほととぎすの夏をよぶ鳴きをいう。鶴の一声は、神様、上司の決断に喩えられる。
能に『歌占』(うたうら)があり、離別した父子の再会を主題にしている。このほかに、『木賊』、『雲雀山』、『弱法師』、『花月』があり、別離の悲哀は『桜川』、『隅田川』、『三井寺』がある。
加賀国白山の麓の里人が、最近来た歌占い師が善く当たるというので、曾て父と離別した小児、幸菊丸の父をさがしに、この占い師をみてもらったところ、占い師自身が父親であった。故郷の伊勢の二見にかえっていく。この中に、「さりとては占いに偽りよもあらじ。鶯にあふ言葉の縁あり。この中の子規ともいへり。置きも卯月程時に合いにあいたり。今啼くは子規にて候か」という場面があり、初夏の出し物である。
螢籠、螢、螢駕籠とも初夏の季語で、卯月の季語であるが、新暦では6月に入れられることが多い。螢合戦とは螢が交尾のため飛び交うさまをいう。
麦秋、麦畑は6月上旬から黄ばみ、麦を取り入れる時期となる。卯月の別称で、旧暦の4月である。源俊頼の散木奇歌集に、「御園生に 麦の秋風そよめきて 山ほととぎす 忍び鳴くなり」。
澤瀉、おもだかは十字の花がさき、凛としていることから、好んで、家紋に使われ、勝ち草で、古くは平家物語のさかおもだかの腹巻きの片岡八郎、酒井、松平らは澤瀉紋をつかっており、市川猿之助一門は澤瀉を定紋としていたので澤瀉屋とよばれる。
落とし文とは、公然といえないことを、記して筒状にして、道など落としておく文をいい、落書ともいう。これがオトシブミと虫のなまえになっているし、この小さなゾウムシ科の甲虫が卵を葉にうみつけて、葉が筒状に巻いて路上におちている状態をいう。
君影草は、鈴蘭のこと、ユリ科で、福をもたらすという。はまなすと並んで北海道の代表の多年草。
|